映画 特集テーマ

2012年7月27日 (金)

1996年 大人の女のベクトル(映画 特集テーマ)

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<特集・映画/大人の女の原則>

映画で探るあなたの大人の女へのベクトル

高山ビッキ・文

“大人の女”のイメージを追求するとしたら?こんな「大人の女座標軸」を傍らにおいて、映画作品を見ながらあなただけの大人への道を模索してはいかがでしょう。X軸で<母性>対<父性>、Y軸で<プリティ>対<セクシー>を捉え、その2軸が交差するところに、まさに現代の「スーパー・アダルト」が見えてきます。

●プリティ・ママ

今も昔もいるかわいいお母さん、

プリティ・ママは大人の定番

比較的古典的なイメージで、なじみやすいのがこの「プリティ・ママ」。映画「潮風のいたずら」で記憶喪失のまま<母性>にめざめていく女性を演じたゴールディ・ホーンの<プリティ>ぶりはいち押し。

どこかヌケてて、ドジで、時々明るくヒステリックしちゃう。それでいて愛情豊かで、なかなか表面には出さないけれど本当はすごく賢かったりする。きっと子供と接することで育っていく、大人の知性の表現が、この「プリティ・ママ」なのだと思う。

また、映画「フォレスト・ガンプ」や「マグノリアの花たち」などで母親の良心ともいえる女優はサリー・フィールド。そのあたたかで日向の香りのする母親の感じも「プリティ・ママ」が見せる大人のイメージである。プリティ・ママの生きざまを追求してみては。

●ボーイッシュ・アダルト

ボーイッシュ・アダルトのキュートな知性

どこか大人になりきれない部分を残しながら、それでもやはり大人になろうと努力することで、その揺らぎがストイックな雰囲気の気品を生じさせてしまったようなタイプ。アネット・ベニング、ダイアン・キートンなどがこのタイプ。

ウォーレン・ビティと共演した作品「めぐり逢い」のアネット・ベニングのはかなげな美しさは、大人ならではの可憐さ。身をひきつつ、しかし本当に大切なものは心の中で守り続ける。それがこのタイプの身上である。

またダイアン・キートンと言えば、マニッシュなスタイルを自分らしく着こなしてしまうのが印象的。映画のワンシーンで、企画書を書いたり、イラストを描いたりするときの手の動きがすてき。少女っぽさに欠けるなと思う人は、この<父性>×<プリティ>の魅力を追求することで、あなたらしい大人の道が切り開けるかも。

●アンドロジナス・セクシー

クールビューティな大人の魅力

<父性>的で<セクシー>という、何やら妖しい雰囲気をもつこのタイプは、いわば先端の大人の女である。

筆頭にあげたいのは何といっても「氷の微笑」でバイセクシャルを演じたシャロン・ストーン。「スペシャリスト」の冒頭シーンでは、電話の声の存在感だけでシルベスタ・スタローンを誘導していく。その声が低くてセクシー。また、「クイック&デッド」では、戦う女を演じるが、同じタフネスでもスーザン・サランドンやジェシカ・ラングとちがい、ナイフのようなクールさが「アンドロジナス・セクシー」ならでは。

このタイプで他にあげられるのは、「エイリアン」のシガニー・ウィーバー、「ターミネーター」のリンダ・ハミルトン、「ブレード・ランナー」のダリル・ハンナ、そしてシャロン・ストーンを有名にした作品が「トータル・リコール」となるとこのタイプはSFが似合う大人の女である。

●タフ&セクシー

大地のようにすべてを包み込む

女性原理のタフ&セクシー

<母性>のおよぼす影響力の範囲が広すぎる、というのが、つまり、女性原理そのものの大地のような存在である。「プリティ・ママ」とちがい、<セクシー>の要素をもつためか、時に、母親として逸脱することもしばしば。その部分も含めてやはり<母性>の人である。

典型は何度といってもジェシカ・ラング。「ロブ・ロイ」では、愛する夫と娘たちを守るために体を張って生き抜く、あっぱれなほど強い母親役を熱演。「ブルー・スカイ」ではあんまりにも男好きで、夫と子供をハラハラさせるのだが、最後はやはり<母性>のままに戦う。相手役も相当度量のある人じゃないと務まらない。ちなみに実際のパートナーはサム・シェパードである。

他に、「激流」で体力をつけみごとに川下りをしたメリル・ストリープも、この「タフ&セクシー」に加えたい。

●スーパー・アダルト

スーパー・アダルトの

どうやっても割り切れない魅力

代表格にプッシュしたいのが、スーザン・サランドン。映画「依頼人」では、アル中のため離婚して子供も失う<母性>失格者であったものの、弁護士という論理で勝負する<父性>を身につけ、事件に巻き込まれた一人の少年を救う。でも少年に対する眼差しはあくまでも<母性>だった。

また、映画「ぼくの愛しい人だから」は、大人の女の<プリティ>と<セクシー>で、年下の男と結ばれるストーリーだが、実際のパートナーも年下。役者としてその才能が高く評価されているティム・ロビンスである。二人の間に<父性>の対等感があるのが大人の風格。

イメージ的には、ミシェル・ファイファーやキム・ベイジンガーもこのタイプ。またキャサリン・へプバーンなどいくつになっても現役で、若者にさりげなく示唆できる大女優は、<スーパー・アダルト>として敬意を表したい。

(19964月ファッション専門店PR誌掲載)

※この文章は高山ビッキが1996年に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。 ※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年7月24日 (火)

1995年 ドリーム・リアリズム(映画 特集テーマ)

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<特集/ドリーム・リアリズム>

「映画には夢がいっぱいあなたはどの“夢”をみますか

~ドリーム疑似体験」

高山ビッキ・文

ドリーム・リアリストには誰でもいつからでもなれますが、夢と現実を分けて考えがちな現代人にはその感覚を取り戻すまでがたいへんかもしれません。そんなときは、まず、映画作品を見てシミュレーションしてみましよう。

「ドリーム・リアリズム」座標軸を用意しました。夢を実現するためのエネルギーを、意識的な面はX軸の(他力=他人を活かす)か(自力=自分で乗り切る)かで、環境条件的な面はY軸の(軽力=力を抜く)か(重力=責任を引き受ける)かで測ります。

その2つの軸の相関関係からドリーム・リアリズムの主だった4つの方向性が見えてきました。(それぞれ意味するところは座標軸で解説)さて、夢に対するあなたの考え方や行動はどの方向性に近いでしょうか。

●思いやりややさしさがなければ維持できない

「ドリーム・ジャンボ」型の夢

「美人はいいなあ、それだけでみんなからチヤホヤされて、何の苦労もしないでいい夢見られるから」とぼやきたくなる作品群が並ぶ領域。「プリティ・ウーマン」や「幸福の条件」のヒロインは、最初はそれぞれ娼婦だったり、お金に困ったりするわけだけど、引き上げてくれるリッチな男性との出会いに恵まれる現代版シンデレラ・ドリーム。

女性がエステや美容整形に出費するほど美しさに貪欲なのは、この領域への憧れが強いからだろう。ただし、その欲求も度を超すと「永遠に美しく」のように、老化知らずの容貌とプロポーションを手に入れたのはいいが、しまいにはほとんど化け物になってしまう場合も。美貌もさることながら、裏表のない思いやりややさしさがないとここでの夢は長続きしない。

※運に恵まれてあまり苦労をせずに夢を手に入れてしまうこと。しかし、人生はそんなに甘くない。宝くじにあたるような次元の話なので「ドリーム・ジャンボ」と呼ぶことにする。童話に出てくるヒロインは必ず王子様が現れて幸せにしてくれる。無意識にも女性は「ドリーム・ジャンボ」型の夢を抱く修正を身につけていると言えなくはない。女性の社会進出が定着してさえ、玉の輿願望があるのはその習性によるもの。でも、童話にはハッピーエンドのその後が描かれていないので要注意。

「ドリームズ・カム・トゥルー型」の夢に必要な

ひらめきと真実を求める心

「こうなりたい」という思い込みがものすごく強く、それに対して具体的な行動をとるヒロインが登場する。たとえば「ハウスシッター/結婚願望」はたまたま出会った男性の所有している家を写真で見てそこに住みたいと思ってしまう。ほとんど結婚詐欺師のような女性で、ふつうは迷惑この上ないのだが、自分の夢を実現するためにつく嘘八百が天才的なひらめきと想像力にあふれている。

「めぐり逢えたら」は、結婚を目前にマリッジブルー状態のヒロインが、妻をなくし打ちひしがれている男性がラジオで話しているのを聞き、その人こそ自分の求めている人ではないかとひらめき、めぐり逢うべく努力する。

思い込みの強い女性というのは世の中にけっこういて、一歩まちがえると病的になる。それを夢に転換できるかどうかは、真実を求める心があるかどうかにかかわっている。また「フラッシュダンス」や「コーラスライン」など才能で夢を実現するものはこの領域の典型。

※特定のことにすぐれた才能があり、ひらめきや想像力にあふれ、さらにその能力を楽しんでしまう人の夢の実現のしかた。人気バンドのヴォーカルが語る「何かが別次元から降りてくるように発想が浮かぶ」、その感じがつかめるかどうかで、この夢に連なれるかどうかが決まる。イチロー選手はその天才ぶりが“宇宙人”と評されるほど常人離れしているが、人間的な精神修行も怠らず絶えず進化している。まさにこの象限の極に位置する存在。

ある人は華麗に、ある人は愛情深く、

「ドリームフロンティア」型の夢を実現する強い女たち

男顔負けの知力・体力であらゆる困難辛苦を乗り越えていく強い女たちが登場する。

SFものでは「エイリアン」や「ターミネーター」などのように極限状態の問題を解決するのが女性という場合もある。また、「女刑事エデン」や「羊たちの沈黙」などのように犯罪を捜索する側、一方、「ブロンディ」や「甘い毒」などのように犯罪に手を染める側の両方で、強くて賢いヒロインたちがあらゆる重圧をはねのけドロドロになりながら何かを達成しようとする。

かといって、この領域の女性たちが美しさややさしさに無縁かというとそうではない。どの夢を見る女性よりも華麗で愛情深かったりする。特に母親として夢のために戦うとき、彼女たちは並はずれた力を発揮する。

※未知の領域に挑戦し、限界を突破しようとする人の見る夢。冒険といえば昔は男のロマンと考えられていたが、最近は女性冒険家もめずらしくなくなった。空、海、大地への挑戦が冒険の王道と言えるのは、地球に誕生した生命体として重力と正々堂々向きあうからだ。そのためには重力に屈しない強い体と心が必要となる。

最近ベストセラーになった「アリーテ姫の冒険」のヒロインは自分の知恵と勇気でほしいものを手に入れていく。これまでの童話のヒロインのように魔法や王子様に頼ったりしない。まさに「ドリーム・フロンティア」型ヒロインの誕生だ。

●弱くても、病んでいても仲間がいれば大丈夫、

「ドリーム・コミニュティ」型の夢

単独では何もできなくても、友人や仲間たちと協力することで夢を膨らませることができる。ここでは友情、家族愛、夫婦愛などがキーポイントになる。

女の友情の強さを確認するなら「テルマ&ルイーズ」や「フライドグリーントマト」。チームものでは野球の「プリティリーグ」やバンドの「サティスファクション」などがあるが、どちらも男性の応援があってこそできる。

でも「バッドガールズ」や「カウガールブルース」のように、ときには男性が築いていた価値観と真っ向から戦わなければならないときも。そして「男が女を愛するとき」には夫婦愛を、そして「ギルバートグレイプ」や「ホテルニューハンプシャー」には家族愛を見ることができ、それぞれ乗り越えるべき深刻な問題がありながら目線は夢に向っている。

※ある時は他人の力に援けられ、またある時は他人に大きな影響力を及ぼしながら集団で何かを乗り切ったところに拓ける夢。女性だけの集団でも最近は男性社会の問題点なども冷静に評し、平和志向で忍耐強いなど集団でこそメリットとなる女性の持ち味を男女を区別しない世界で活かしはじめている。女性企業家が増えているのもこの領域で説明できる。

(19959月ファッション専門店PR誌掲載)

※この文章は高山ビッキが1995年に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。 ※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年7月18日 (水)

1992年 一筋縄ではいかない、ジャズと恋(映画 特集テーマ)

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<特集テーマ・ジャズの心意気で>

一筋縄ではいかない、ジャズと恋

高山ビッキ・文

その日、私は、本人曰く“売れないミュージシャン”に取材してきたところだった。“売れない……”とは、テレビなどに取り上げられる機会が少なく、一般に知られていない、という意味だ。でも、ジャズやブルースが好きで、こまめにライブスポットをチェックしている人なら、そのピアニストとしての才能を知っている人も多いはず。日本にもそんな埋もれたミュージシャンは多い。

そして、「恋のゆくえ」を観た。勢い私の関心は、日米であまり差のない〝売れない……〟事情に向いてしまった。おかげで邦題よりも原題の「ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」に共感できた。(因みに、ピアニストのベイカー兄弟を本当の兄弟が演じている)

二人は、ホテルラウンジを中心に地道な音楽活動を続けてきたが、小悪魔的で猫のように魅惑的な女性、スージーをシンガーに迎えることで、デュオとしてのバランスを崩していく。映画ではデュオ解散後ただの兄弟として、会話のように演奏するシーンがいい。

スージーといえば、いまどきの女性のしたたかさを見せ、一人コマーシャリズムに乗ったのだが、そこで初めて、〝売れること〟と〝売れない〟ことの意味を、そしてベイカー・ボーイズの素晴らしさを知る。

「ニューヨーク ニューヨーク」では、ナンパな感じのサックスプレイヤー、ジミーが強引さでは落とせなかったフランシーンを、音楽を通して魅了していく。が、結婚後の生活はうまくいかず、アーティストとしてはフランシーンの方が成功してしまう。彼女の成功の秘訣は、発掘したプロデューサーによれば歌の上手さだけではない、「声同様に性格が甘くソフト」という指摘にある。

ミュージシャンとは往々にして我儘で、コドモの部分を多く残している。ジミーはその典型。そんな彼を包んであげることのできたフランシーンだからこそ、不特定多数のファンに歌手として愛情を捧げることもできたのだ。

生きている時代設定は違うが、スージーもフランシーンも自分で歌える女性だ。自力で成功を勝ち取ろうとする。他力本願的な女性じゃない。だから、魅力的だがあぶないミュージシャンとの、ライブセッションのような恋ができたのだろう。自分の人生の中でとびっきりの〝シンガー〟になれたら、ジャズ(恋)はもっとおもしろくなる。

■「恋のゆくえ/ファビラス・ベイカー・ボーイズ」(初公開1989年) 監督+脚本:スティーブ・クローブス 出演:ボー・ブリッジス ジェフ・ブリッジス ミシェル・ファイファー 製作国:アメリカ

※一人の女性シンガー(ミシェル・ファイファー)と兄弟ピアノ・デュオ(ジェフ&ボーブリッジス)織り成すジャジーな大人の関係を描いたドラマ。デイブ・グルーシンが音楽を担当。

■「ニューヨーク ニューヨーク」(1977年製作) 監督:マーティン・スコセッシ 脚本:アール・マックローチ マルディク・マーティン 出演:ライザ・ミネリ ロバート・デニーロ 製作国:アメリカ

※戦後のNYを舞台に、野心的なジャズマン(ロバート・デ二-ロ)と新進歌手(ライザ・ミネリ)が繰り広げる恋と現実のお話。4050年代のジャズを堪能できる。

19921月ファッション専門店PR誌掲載)

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※この文章は高山ビッキが1992年に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。 ※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年7月17日 (火)

1993年 糸偏deいとおかし(映画 特集テーマ)

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<特集テーマ・糸偏について考える>

糸偏のアンソロジー

「糸へん de いとおかし」

高山ビッキ・文

世界が一本の糸のようだった時代は終わった。極と極を結び、ピンと張りつめていればいるほど、もろくも美しくもあった人間関係のあり様が変わった。

西と東、そして男と女。「わたし」の生活とは一見距離のある政治の問題から、「わたし」の目下の関心事である恋愛問題にまで、その変化の波は押し寄せている。

そこで今回、先の読めない時代の人生哲学を、糸そのものではなく、糸偏が作り出す多次元世界に求めてみた。たとえば、自分と語り合うゆっくりした時間を過ごしながら、好きな色を思い浮かべてみる。それも、あえて糸偏の色を選んで。グリーンより緑を、ブライトレッドより紅を、インディゴブルーより紺を……。

流行色にゆがめられている色彩感覚をみつめ直し、その色に関する自分の様々な記憶を思い起こしてみる。そうして、その好きな色の糸たちを結んで、編んで、織ったり、縫い合わせたり。つまり糸偏的手作業によって自分を一幅のタペストリーに仕立ててみる。

これでいいと思っていたのに、糸がこんがらがっていたり、いつの間にか色褪せていたり。でも今の自分が手にとるように見えてくるだろう。

なにも最初から完成された作品である必要はないのだ。世界の各地域で古くから伝わっている織物は、外から入ってくる異質の文化もどんどん織り込んでいくからこそ、現代に生きる文化として受け継がれているものが多い。

織られた「自分」のはしっこが、ちょっとほつれたりしているのも「いとをかし」なのだ。そこを誰かの織物に繋ぎ、絡めてみる。たとえ異質の取り合わせでも、合わせてできる絵柄が美しければ、コミュニケーション成立と理解していい。糸偏が紡ぎだす先には、古くて新しい重層的な世界が見えてきそうだ。

線や形が複雑に交差するような人間関係も、ひとつの綾だとわかればこっちのもの。創造のスケールが大きくなればなるほど、綾(法則)は求められるのだから。

それがどんどん大きくなり、マクロの視界から見てただの網のように見えることを、ネットワーキングと呼ぶのかもしれない。そうして初めて、「自分」という織物が「宇宙」という織物の一部になる。そんな、いとをかしき世界にわたしたちは生きている。

ピックアップシネマ

「愛に翼を」

「潮風のいたずら」

子供の頃よく遊んだ公園に、20年ぶりぐらいで行ってみた。小高い丘に昇ると、体育の授業でスキーをした記憶が、当時のリアリティそのまんまに甦った。スピードも、高さも怖かった。臆病な子供だったことを思い出した。記憶の海に糸をたれ、忘れ去って久しいものを引き上げるだけで、何か癒されたような気になる。

人は、自分の中の、〝大切な糸〟が断ち切れた状態に陥ったとき、果てしなく悩み、病むものではないだろうか。今回紹介する2本の映画からは、その〝大切な糸〟の紡ぎ方を見ることにする。

『愛に翼を』では、最初、登場人物がみな絆を失っている。家族愛と言う、いわば天然の絆になんらかの問題が生じている。二人の間に埋めようのない溝のある夫婦も、ひと夏をその夫婦の元で過ごす内気な少年も、そして少年と友達になるおませでおてんばな女の子も。

絆を見失って次の一歩を踏みだせないでいる彼らは、言わば〝糸偏喪失症〟だ。だが、血縁関係でもなく、その後会う可能性も少ない人間模様にもかかわらず、それぞれがお互いを鏡とすることで新しい絆を見いだしていく。

子供たちにとっては、大人になって何かにつまずいたときに、必ず正しい方向へと導く人生の伏線となっている。まさにイニシエーションの夏。それを見守ることで、大人たちも癒しを受けることになる。

一方記憶喪失という人生のホワイトアウトの期間が、純度100%タカビーな女の人格改造を果たす物語が『潮風のいたずら』だ。豪華クルーザーから転落しただけでなく、人生も転がり落ちたような設定に追い込まれるのだが、彼女が本来もっていた教養や優しさはむしろそこでこそ発揮される。

この作品でも子供との絡みが興味深い。傲慢なこの女性が愛情に目覚めていく頃には、放任教育で手のつけられなかった悪ガキどもが、彼女にしつけられたいと願うようになる。

わたしたちは、日々、溢れんばかりの情報に接して、『潮騒のいたずら』の主人公ならずとも軽い記憶喪失症にかかっているとはいえないだろうか。このところずっと「自分探し」現象が流行しているのもそのためだ。過去の「わたし」を紡いだ糸を、未来の「わたし」に繋ぐ。今、完成させることはない。そんな手技が生き方にも必要なのかもしれない。

それにしても、それぞれの作品の主演女優に感心させられるのは、ストーリー展開ととともに着実に顔が変わっていくことだ。演出のせいばかりでなく、本人の細胞そのものが変化していそうだ。細胞は美しさのモチーフだ。美しさを磨くのにも、やっぱり「糸偏」が不可欠なのだ。

BREAK

『愛に翼を』(原題「PARADISE)はメラニー・グリフィスとドン・ジョンソン、『潮風のいたずら』(原題「OVERBOARD」)はゴールディ・ホーンとカート・ラッセルという、どちらも私生活上もパートナー同士(当時)のカップルが主演している。映画というフィクションの世界にどれだけ真実の瞬間を垣間見れるか。二作品を比較してみると、見えないはずの〝赤い糸〟が見えてくるかもしれない。

■「愛に翼を」(1991年製作) 監督+脚本:メアリー・アグネス・ドナヒュー 出演:メラニー・グリフィス ドン・ジョンソン イライジャ・ウッド 製作国:アメリカ

■「潮風のいたずら」(日本公開1988年) 監督:ゲイリー・マーシャル 脚本:レスリー・ディクソン 出演:ゴールディ・ホーン カート・ラッセル 製作国:アメリカ

(199310月ファッション専門店PR誌掲載)

※この文章は高山ビッキが1993年に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで 03(3981)6985

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