1992年 タイム・セーヴィング
<特集テーマ 私はタイムトラベラー>より
「タイム・セーヴィング」
片岡義男 文・写真
人は誰も経過していく時間の中にいる。時間から逃げることの出来る人はいない。誰に対しても時間は経過していく。そしてその時間は、誰にとっても等量だ。時計で測るなら、たとえば一時間は、どの人にとっても、量としてはまったく等しい一時間だ。
一日は誰にとっても一日だ。しかし、時間の過ごし方となると、文字どおり千差万別だ。時間の過ごしかたとは、経過を続けてはかたっぱしから消えていく時間というものを、どのようなものに変換して自分の一部分としていつまでも持てるようになるか、ということだ。
消えていく時間をなにか別のものに換えて、それをちょっとやそっとでは消えないものとして、自分の一部分にしてしまうことだ。いまの僕の考えかた、あるいは好みで結論を先に言うなら、最終的にはひとりでいることがもっとも良く似合うような人になるのが、いちばん美しく望ましいことだ。
たとえばひとりの女性は、どこにどのような関係をどれだけ引きずっていてもいいけれど、彼女がもっとも彼女らしくあろうとするときには、彼女は誰をも頼らず、余計ななにをも必要とせず、すっきりとひとりで完結出来る人であってほしいと、僕は思っている。
いつになっても、自分以外のところにさまざまな依頼の関係が必要であるという状態は、醜いのではないだろうか。ではなにが美しいのかというと、いまも書いているとおり、自分だけできわめて豊かに完結することが出来、ほかにはなにも必要ではないという状態が、内面だけではなく外面にすら、美しくあらわれている状態が、もっとも美しい。
そのような状態をいつかは自分のものとして手に入れるためには、そこにいたるまでの時間の使い方が、決定的な意味を持ってくるはずだ。どこの誰もがいつだっておこなっているような、つまらない小さなことを次々になぞっては時間をやり過ごしていると、ひとりで存在することがもっとも似合うような状態になることは、いつまでたってもできないだろうなと、僕は思う。
どんなふうに時間を過せば、最終的にそうなれるのか、僕にもよくわからない。誰にも共通して有効なマニュアルなど、どこにもないのだ。その人が、その人にだけ有効な独特な方法で、時間を過すほかない。
そのためには、ことのはじめから、その人はひとりの個として、ひとまず完成されていなければいけないような気もしてくる。経過していった時間が、ふと気がつくと自分の中にまったく残っていないのは、貧しくて醜い状態だと言いきってまちがいではないと、僕は思う。
すこしでも緊張をゆるめると、時間というものは、ほんとにいっさいなんの痕跡も残すことなく消えていく。そのような時間をなにか別のものに変換し、自分自身の大切な一部分としていけるような時間の使い方は、美しく豊かであり、したがってもっともぜいたくだ。
ほかの誰にも出来ないことを、自分だけにしか出来ないことを、すこしずつ長い期間にわたって持続させていかなければならない。そのようなかたちで体験する時間が、もっとも充実した時間なのだ。
経過していく時間をなにかほかのものに変換し、自分の一部分としていつまでもとどめておく、とさきほど僕は書いた。もしそのようなことが出来たとして、なにかほかのものに変換されたそれは、自分のどこにとどまるのだろうか。
ごく平凡な答えになるけれど、心や頭、そして気持ちなどの内部にとどまるのだ。内面のありかたは外面にも大きく影響するという考え方を採用するなら、変換されたものは体にもとどまる。たとえば、姿勢や身のこなしが美しい、というようなかたちで。
これからは心の時代だ、という言い方を最近はよく聞いたり見たりする。心など、じつはどこにもない。自分で作るほかない。作らなかったら、ないのだ。作っていくための背景である時間は、誰にでも等しく最初から手に入っている。その時間のなかで、なにをどうすればいいのかということだが、マニュアルはない。
最終的にもっとも美しくぜいたくに存在するための、長い助走路として機能する時間の使いかたは、たいへんにやっかいで難しい。やっかいで難しいことを、ほとんど一生と言っていいほどの長時間にわたって真剣に引き受けないことには、人はぜいたくにも美しくもなれないようだ。
(1992年4月ファッション専門店PR誌掲載)
※この文章は片岡義男さんの許可をいただいて掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。 ※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985
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