史跡めぐり/先人の暮らし方に学ぶ

2012年11月26日 (月)

2000年 旧吉屋信子邸(先人の暮し方に学ぶ)

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旧吉屋信子邸(鎌倉市)

吉屋信子が遺した家が物語る

作家の真実と建築家の思想

高山ビッキ・文

作家吉屋信子(18961973)のイメージは、その作品世界によって二つに分かれるかもしれない。女学生の頃から自分の作品を少女雑誌に投稿していた吉屋信子は、大正5年、信子20歳の時から始まった『花物語』の連載で当時多くの女性ファンを魅了した。

中原淳一の挿絵と相まってその世界は少女の憧れを誘う西洋的なロマンチシズムに溢れていた。人気作家となってからは髪型をショートボブにし、いわゆるモガの草分け的存在であった。つまり、初期の作品からは「少女小説」作家の印象が強く、また、題材に女性同士の友情などを描くことから、男性中心の社会に批判的なフェミニストと見られることも多い。

しかし、天性の文章家である吉屋信子は、身の回りに起こることことから社会の動き、世界の動きにまで絶えず敏感に反応し、素直に表現してきただけで、決して「少女世界」や「女の世界」を専売特許にしたわけではない。その証拠に、年を重ね見聞を広めていくなか、独自の歴史小説をものするようになる。晩年の吉屋信子は、『徳川の夫人たち』『女人平家』といった歴史小説を書く、堂々たる女流作家として和服姿のイメージを記憶している人も多いだろう。

吉屋信子は生涯を独身で通した。そして自分の力で邸宅や別荘を何度か建てている。この家は、昭和37年に建てたいわば終の住みかである。これを設計したのが吉田五十八。信子が吉田に設計を依頼したのはこれが三度目になる。過去に牛込砂土原町(昭和10年)と二番町(昭和25年)に吉田五十八の数奇屋の家を建てている。

吉屋信子に初期の「洋」のイメージを重ね合わせる人にも、晩年の「和」のイメージを抱く人にも、この家は意外な印象を与えるかもしれない。そしてその意外性こそ、当時新しい数奇屋といわれた吉田の建築の思想の一端と、吉屋の真実を物語っている。

■ビッキの住宅温故知新

吉屋信子がそだてた新しい数奇屋

吉屋信子は昭和元年、下落合にテラスの張り出したバンガロー風の洋館を建てている。これはまさに信子の初期の作品をイメージさせる家といっていい。

ところが昭和3年から4年にかけての一年間、モスクワからアメリカまで世界を西回りでぐるりと見てきた信子は、帰国後、日本人としての自分を強く意識するようになる。そうした経験の後、信子は吉田五十八と出会っている。まだそれほど知られる前の吉田に、信子は、「イスの生活ができる日本建築にしてほしい」とだけ希望を伝え、あとは自由に任せた。

自らの数奇屋建築を求めて途上にあったこの建築家にとってかなり大胆な実験の場を与えられることとなった。吉田自身何かの建築誌に「新しい数奇屋の、そもそも発祥の家が、当時の吉屋さんの家だとすると、吉屋さんはさしずめ新しい数奇屋の生みの親といえるかもしれない」と書いている。

施主が建築家を育てた好例であり、両者の心の高貴さが感じられる数奇屋建築である。

★写真(上から)

1、庭から見た外観。家の向こうには樹齢2300年のたぶの木がみえる。庭に植えられたオールドローズは信子の好きな花だった。

2、数奇屋風の腕木門。塀は腰板付き、瓦葺の壁塀。

3、銅版葺屋根の玄関。ポーチ・玄関内部の床は玄昌石の四半貼り。

4、和室続きのリビング。ソファは吉田五十八設計の造り付け。座った時の目線と和室に座したときの目線が同じ高さになるように設計している。

5、和室は6畳だが、縁側と床框にケヤキを使った広い床の間によって広く感じる。

6、執筆に集中できるようにと書斎はあえて北向きに。暗くなりがちなので天窓を付け、中に蛍光灯を入れている。

7、花を愛した信子の広い和風庭園。

20007月住宅メーカーPR誌掲載)

■吉屋信子記念館

神奈川県鎌倉市長谷1-3-6

お問い合わせ:鎌倉生涯学習センター

TEL.0467(25)2030

※この文章は高山ビッキが2000年に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。写真の掲載につきましても再度許可をいただき使用しております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年10月17日 (水)

2000年 成城五丁目猪股邸(先人の暮し方に学ぶ)

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●成城五丁目猪股邸(東京・世田谷区)

武士道を尊ぶ施主の心意気に応えた

吉田五十八の近代数奇屋家建築

高山ビッキ・文

東京・世田谷区が高級住宅地しての姿を見せ始めたのは昭和30年頃。猪股邸は昭和42年に成城地区に建てられた。施主は(財)労務行政研究所の理事長を務めた故・猪股猛氏。氏が夫婦のいわば“終の住みか”として、それまで住んでいたフランク・ロイド・ライト風の住居を和風の建物にしたいと、建築家吉田五十八(18941974)に依頼して建てた家である。

吉田五十八は大正から昭和にかけて活躍した建築家で、独自の手法を通じて因襲化した数奇屋建築を近代化して再生したことで知られる。主な作品としては、歌舞伎座や成田山新勝寺大本堂、五島美術館などの公共建築物の他、梅原龍三郎、吉屋信子など文化人の私邸をはじめ数多くの住宅設計も手掛けた。昭和39年には文化勲章を受けている。

猪股家は松浦藩の武家の出ということもあり、猛氏は武家屋敷のような質実剛健の気風が感じられる家を希望していた。その施主の意を汲むことで、猪股邸は吉田五十八ならではの近代数奇屋の美学が細部にまで行きわたっていながら、柱を太くするなど武家屋敷風の要素も加味し、他の吉田数奇屋のスタイルとはちがった特徴をもっている。

100坪はある木造平屋建ての住宅。そのまま屋根をのせると屋根が大きくなりすぎ美観を壊すので、中庭を二つ設け屋根を大屋根、中屋根、小屋根と三つに分ける手法がとられている。庭には、ソメイヨシノ、アカマツ、ウメなど計48種類、計265本の木々が植えられ、居間に面した一帯には、東京にはめずらしいスギゴケがはえそろう。この庭園は猛氏自身がデザインしたもの。

現在、この邸宅は猛氏の長男である猪股靖氏によって世田谷区に寄贈され、庭園と一緒に一般公開されている。日本人の伝統的な美意識と時代が求める近代化精神がみごとに調和した和風住宅である。

■ビッキの住宅温故知新

“吉田数奇屋”の美しさと過ごしやすさ

この邸宅には、シンプルで端正な趣のなかに吉田五十八流近代数奇屋デザインの巧みさが生きている。その真髄が凝縮された茶室「勁松庵(けいしょうあん)」。居間から見るとあたかも離れのように見えるこの茶室に、客人は待合室である居間から庭を通って、にじり口より入る。

しかし実は、この茶室は渡り廊下で主棟とつながっている。お茶事のしたくがラクにできるように利便性を図っているのだ。そして、にじり口は普通は幅が63cmぐらいだが、ここではお茶室から庭が楽しめるようにと、ほぼ倍の128cmをとっている。

また、居間、夫人室、和室、書斎と続く南側の開口部では、雨戸、網戸、硝子戸、障子戸などの柱間装置をすべて引き込み戸にして、開け放つと戸袋のない、壁だけのすっきりした外観をつくるとともに、庭への眺望を防げない空間を生み出している。

西側にある書斎と一畳台目の茶室は昭和57年に増築されたものだが(設計・野村加根夫氏)、“吉田数奇屋”を踏襲し、書斎のコーナーの窓は4種類の戸をすべて収めると、180度見渡せる戸外と一体化した清々しい空間になっている。

(20004月住宅メーカーPR誌掲載)

■成城五丁目猪股邸

1550031東京都世田谷区北沢2-8-18

お問い合わせ先

(財)せたがやトラストまちづくり

TEL.03(6407)3313

※この文章は2000年に高山ビッキが企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。写真についても再度許可をいただき使用しております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年10月11日 (木)

2001年 旧松方正熊邸(先人の暮し方に学ぶ)

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●旧松方正熊邸(東京・港区)

家が育てたインターナショナルで

自由な精神が今も学校教育に生きる

高山ビッキ・文

港区元麻布は道が入り組む住宅街に入ると、行きかう人に欧米の方が多く、道を聞こうにも英語が必要になるほどです。そうした環境を導くかのように佇む、旧松方正熊(まつかた しょうくま)邸は現在、西町インターナショナルスクールとして、幼稚園から中学までの多国籍の子女のための、インターナショナルな教育の場になっています。

1921年(大正10年)に建てられたこの建物は、明治の元勲松方正義の六男で大日本精糖を起こした松方正熊と妻の美代子、そしてその子供たち6人が暮らした私邸でした。この家で育った子供たちはいずれもその生涯をアメリカと深く関わって生きました。

なかでも私たちに最も馴染みが深い方に、次女で、後々駐日米国大使となるライシャワー博士と結婚したハル・ライシャワー19151998年)がいます。そして三女の松方種子はアメリカの大学で修士を取った後帰国し、1949年ここにスクールを開き、日米両国語を話せるようにするバイリンガル教育を始めました。

松方家6人の子供たちの教育には母親が大きく影響しました。正熊の妻美代子はアメリカで生まれ育ち、結婚とともに日本での暮らしを始めました。そして子供の教育を考えたときに、当時の日本の一般の学校教育では独立心が育たないのではないかと思い、自分の子供たちを自分の家で教育することにしたのです。

つまり、自分の家をアメリカ人とイギリス人の家庭教師のいる学校にして教育することに。そのうちに松方家の友人の子供たちも「松方さんの英語教室」と呼ばれたこの私塾に集うようになります。この邸宅が建てられた時には、すでに家を教室として使うことが想定されていました。

この邸宅の設計者は教会の伝道師でもあったウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880

964)です。日本での住宅建築を通して伝道を進めたヴォーリズの設計は、松方家の教育、そして現在の西町インターナショナルスクールにとってこの上ないユートピアを導いたようです。

■ビッキの住宅温故知新

日本人の洋風住宅のモデルとなったヴォーリズの住宅

ウィリアム・ヴォーリズは、コロラド大学を卒業した後、建築家としてではなくキリスト教の海外伝道師として1905年に来日しました。

しかし、伝道活動の資金を得るためにも様々な事業が必要になり、後にメンソレータムで知られる近江兄弟社を設立し、併せてヴォーリズ建築事務所を開きました。ヴォーリズの建築は本来の仕事がら教会やキリスト教系学校などミッショナリー建築で知られますが、大正から昭和にかけて住宅をなんと400棟は設計しています。つまり、現在に至る日本の洋式住宅のモデルをつくった人と言っていいでしょう。

そのスタイルはアメリカの住宅建築の伝統的様式に則ったものですが、ディテールや設備は合理的・現実的な近代住宅を目指しました。この時代にあって住宅環境と健康について語った建築家でもあり、家というハコを提供するだけでなく、家をいつまでも生気あるものにする具体的な処方を提案しました。

■旧松方正熊邸

(西町インターナショナルスクール)

106-0046東京都港区元麻布2-14-7 

TEL.03(3451)5520 URL:http://nishimachi/ac.jp/

200110月住宅メーカーPR誌掲載)

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2012年8月15日 (水)

2002年 自由学園女子部校舎(先人の暮し方に学ぶ)

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自由学園女子部校舎(東京・東久留米市)

ライトの薫陶を受けた遠藤 新による

「自由学園」の建学の精神を伝える建築

高山ビッキ・文

「自由学園」は、「婦人之友社」を創設した羽仁吉一(18801955)・もと子(18731957)夫妻が、新しい女子教育を求めて起こした学校として知られ、現在、幼児教育から大学教育までの一貫教育を行っています。

東久留米市にある三万坪の学校敷地は、人の手になる建物と自然が生み出した樹木が調和する、真の自由を求めた羽仁夫妻のまさに理想郷と呼ぶにふさわしい環境です。大正10年の創立当初「自由学園」は目白(現自由学園明日館、豊島区西池袋)に校舎が建てられました。その設計にあたったのが、当時帝国ホテルの建設のために来日していたフランク・ロイド・ライト(18691959)でした。

そして羽仁夫妻にライトを紹介したのが、その弟子遠藤 新(18891951)であり、この、当時からの呼び方でいえば「南沢」の女子部校舎は隣接する学園町の分譲と共に、昭和9年に遠藤本人の設計により建てられました。目白・南沢二つの建築に共通しているのは、遠藤が「三枚おろし」と呼んだ、建物を縦に三つに分けて中央の空間の天井を高くし、両側の空間の天井を低くする空間構成です。

これによって美観、音響効果、経済性などにすぐれた建物が実現しています。ただし、目白の校舎はツーバイフォー工法を採用していますが、南沢の女子部校舎は木造軸組工法。また、食堂とその両側の校舎には瓦屋根を載せ、体操館は面する大芝生に対して内と外と境界を曖昧にさせるほど開放的になっているところに、ライトから学んだものを日本の風土により深く根ざした建築として昇華させた遠藤の志の高さが窺えます。

「建築は生活の質を高めるための生活環境でなければならない」と考えていた遠藤の建築哲学は、まさに実生活の大切さを教育の基本に据えた「自由学園」の建学の精神に通じるものです。南沢の学園には「時の係」を受け持つ生徒によるチャイムが響きます。ここでは「時」もまたゆっくりと手作りされているようです。

ビッキの住宅温故知新

食堂に象徴される生活の場としての学校建築

「自由学園」が他の学校に比べて特徴的とされることのひとつに、食堂が学園生活のなかで重要な役割を果していることがあります。これは学校給食や弁当持参とちがい、生徒たちが自分たちで食事を作ってあたたかい料理を皆で一緒に食べる家庭的な場所であり、特に羽仁夫人の母親としての発想から生まれた教育観に基づいています。

「自由学園」では、料理だけでなく校内の掃除や広い芝生の手入れまで生活まわりのことはすべて生徒たちが自分で行います。そうして実生活上の能力を身につけさせることが、一般の学科を習得すること以上に大切であるという考えは、羽仁夫妻亡き後もずっと受け継がれている教育理念です。

ライトや遠藤 新がその教育理念を深く理解した背景には、ライトの叔母がアメリカで邸宅内にホームスクールを開いていたということや遠藤 新も「生活に徹底した建築」を求めていたことがあり、それらが幸運な出会いとなって、建築に結実したと言えるでしょう。

●学校法人自由学園南沢キャンパス

203-8521東京都東久留米学園町1-8-15

TEL.0424(22)3111FAX.0424(22)1078

●学校法人自由学園目白キャンパス

(重要文化財、自由学園明日館)

171-0021東京都豊島区西池袋2-31-1

TEL.03(3971)7535FAX.03(3971)2570

(20027月住宅メーカーPR誌掲載)

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2012年7月31日 (火)

2002年 旧マッケーレブ邸(先人の暮し方に学ぶ)

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雑司が谷旧宣教師館

「旧マッケーレブ邸」(東京・豊島区)

国境のない精神から生まれた

質実な洋館 高山ビッキ・文

豊島区の「雑司が谷霊園」付近は、都内の散歩スポットのひとつ。夏目漱石や小泉八雲など文豪も眠るこの霊園なら、機知に富んだゴーストに出会ってしまうかもしれませんね。この「旧マッケーレブ邸」はそんな散策者に偶然“発見”されることも多いようです。

現在、東京都及び豊島区の文化財に指定されているこの木造の洋館は、米国人宣教師ジョン・ムーディ・マッケーレブ(18611953)によって明治40年(1907)に建てられました。当時日本に数多く建てられたいわゆる外国人宣教師館のひとつです。

建物には、19世紀のアメリカ東部に見られた住居形態の特徴がよく表れています。全体のデザインは米杉(アメリカン・レッドシーダー)(シングル)で外壁を葺くシングル様式。また、森林資源が豊富で木造建築が主流だった19世紀のアメリカでよく見られた、カーペンター・ゴシック様式(ゴシック様式を大工の職人芸で実現する)が細部の装飾に生かされています。

テネシー州のナッシュビル郊外に生まれたマッケーレブは、クリスチャンとして高い理想に燃えて1892年に初めて日本にやってきました。そして1941年の日米開戦により帰国するまでの約50年間を日本で宣教師として活動しましたが、その理想は打ち砕かれることも多く、土地や資金を失うことも多々あったようです。それでも帰国後は、日系人収容所の慰問や日本への義援金の送付など我が国への支援を惜しまなかったと言います。

「私の国籍は天国にあるから」と考え、国境意識を持たなかったマッケーレブ。その帰国後、邸宅の住み手は何度か変わり、最後はマンション建設計画のため取り壊しの運命に差し掛かった時、住民運動が起こり、昭和57年に豊島区による保存が始まりました。マッケーレブの想いは半世紀の時を経て、私たち日本人に伝わったのでしょうか。

■ビッキの住宅温故知新

19世紀後半のアメリカ郊外住宅にみる

質素な贅沢

現在、日本の都市郊外にたくさんの洋風住宅がつくられているが、そのルーツとも言える原型は19世紀後半のアメリカの郊外住宅と言えるかもしれない。そのひとつの例がこの「マッケーレブ邸」である。

質素ながらシングル様式、カーペンター・ゴシック様式といった特色と全体に漂う品格を備え、今の日本人にも安心と普遍性を感じさせてくれる。間取りは上下階同様で、それぞれ三部屋あるコーナーにはすべてマントルピースが設けられているが、1か所の通気孔に集約させることで省エネを図っている。

ただし、1階の居間の暖炉のデザインだけはアールヌーボー風のタイルを使うなど、質素な中にもささやかな贅沢を忘れていない。また、開口部を大きくとった上下階の広縁はサンルームの役割を果たしている。広縁と食堂との間の窓は室内でありながら上げ下げ窓になっていることから屋外的な意味があったのかもしれない。

20024月住宅メーカーPR誌掲載)

■雑司が谷宣教師館

「旧マッケーレブ邸」

171-0032東京都豊島区東池袋1-25-5 TEL&FAX.03(3985)4081 開館時間:9:001630 休館日:月曜日(祝日の場合は開館)、第3日曜日 祝日の翌日、年末年始、臨時休館日※ 入館料:無料 交通:東京メトロ有楽町線東池袋駅徒歩10分 東京メトロ副都心線雑司が谷駅下車10分 

※平成2472日~平成252月下旬まで事務棟建替えにつき臨時休館。

※この文章は高山ビッキが2002年に企業のPR誌に執筆した原稿をほぼそのまま掲載しております。また「旧マッケーレブ邸」様にも原稿及び画像の再使用にあたり許可をいただいております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年7月15日 (日)

2003年 旧土岐邸洋館(先人の暮し方に学ぶ)

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「旧土岐邸洋館」大正末期に建てられた“パンの殿様のお城”は堅牢な木造のドイツ風洋館だった。

高山ビッキ・文

江戸時代に城主として土地を治めた一族が、明治以後、近代化する時代をどう生き抜いたか。この旧土岐邸洋館は、上州沼田藩(現在の群馬県沼田市)の最後の藩主、土岐頼知(よりおき)の子息章(章)氏(18921979)が大正期に私邸として東京・渋谷に建てた遺構であり、そこからは時代変化の波に翻弄されながらもたくましく生きた“お殿様”の姿が見えてきます。

明治以降の旧藩主の家計は、よほどの石高でない限り安定しているとはいえませんでした。明治維新後、東京に移り住んだ土岐家も、最初は赤坂の江戸見坂の旧江戸屋敷に住み、別邸を本所の沼田藩下屋敷に構えるなど昔の殿様の生活を続けることができました。しかし、明治30年、気づくと財産はすべてなくなっていました。そもそも次男に生まれ家督を継ぐ立場になかった章氏でしたが、四歳上の兄が早世したことで急きょお家再興の大役がまわってきました。

章氏が再生の道を切り開くために、まず行ったことが何ともユニーク。パンの製造販売でした。帝大で学んだ発酵学の知識を活かして起こした事業でしたが、これは失敗に終わります。しかし、生涯“パンの殿様”の異名をとるほどパン好きで知られ、刺身にパン、みそ汁にパン、番茶にパンと、その感覚はまさに和洋折衷でした。敗戦後、パンがなかなか手に入らなくなると、この邸宅に本格的なパン窯を築き、おいしいパンを焼いたといいます。

章氏の発酵学が本領発揮されるのは、結婚した貞子夫人の実家の事業であるワインの製造販売の会社に入ってからでした。さらなる研鑽を積むためにドイツにも派遣されます。

この邸宅が大屋根と牛の目窓のある、当時ドイツではやっていたユーゲント・シュティールという新しい建築様式を基にデザインされているのは、留学の時の影響が大きかったからでしょう。

大正12年の関東大震災はこのドイツ留学中に起こり、章氏は帰国後渋谷に土地を得て、震災の翌年、この邸宅を建てました。建設当初は、平屋の和洋館と連接されたかなり大きな邸宅で、その洋館と和館を組み合わせた構成には明治期の大規模邸宅建築の名残が感じられます。

しかし、現存するこの洋館には、応接空間を小規模の西洋館の玄関脇に配置する、昭和初期の文化住宅への過渡期の特徴も見られます。大正期ならではのわが国の洋館の特徴をよく示した住宅遺構であることがわかります。

章氏は、その後貴族院議員となり、戦後は中央競馬会顧問などの要職を歴任しました。沼田公園にあるこの邸宅の中でそのありし日を想像するとき、パンやワインの豊かな香りがそこはかとなく立ち上るようです。

■ビッキの住宅温故知新

“殿様”がめざした100年住宅

この邸宅は章氏の逝去後、貞子夫人が住まわれ1990年まで使用されていました。その後、章氏長男の實光氏から沼田市に寄贈された遺構です。

章氏は、本邸建築に当たってドイツから持ち帰ったり取り寄せたりした建築雑誌を読んでデザイン的なことを研究するとともに、大震災の後ということで基礎回りや土台には特に念を入れるようにと施工者に指示していたそうです。

また、メンテナンスにも充分配慮し、章氏自身住まいの手入れをする姿がよく見かけられたといいます。一部増築のほかリフォームもほとんど行われず、使用を止めるまで外観から内部のインテリアにわたり創建当初の様子が伝わる状態を維持していました。

まさに「100年住宅」という言葉をこの邸宅は示してくれます。そのためには住む人の努力が必要なことも。それは堅牢なお城を百年以上も受け継いできた“殿様”ゆえの知恵だったのかもしれません。

200310月住宅メーカーPR誌掲載)

■旧土岐邸洋館 378-0042群馬県沼田市西倉内594番地(沼田公園内) EL.0278(23)4766 開館時間:9:0016:00 休館日:水曜日、祝日の翌日、年末年始 入館料:大人100円 小人40

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2012年7月13日 (金)

2003年 三井八郎右衛門邸(先人の暮し方に学ぶ)

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「三井八郎右衛門邸」

日本最大の財閥を支えた経済人としての美意識

高山ビッキ・文

三井家は、今もその名に威光を残す近代日本最大の財閥でした。江戸期以前に三井越後守と名乗った「遠祖」をもつ一族は、延宝元年(1672)に江戸に呉服屋を開業した高利(たかとし)を「家祖」とし、代々天下の豪商としてその名を高めていきました。代々当主は「八郎右衛門」を襲名。

現在、小金井市の「江戸東京たてもの園」に復元されている「三井八郎右衛門邸」は、その三井同族十一家の総領家十一代当主、三井八郎右衛門高公(たかきみ)氏の第二次世界大戦後の邸宅です。敗戦後の財閥解体を経た昭和27年(1952)に、現在の西麻布三丁目に建てられたもの。

財閥解体後の建物とはいえ、それは先代までが築いた京都油小路、神奈川県大磯、世田谷区用賀、京都今井町にあった三井家に関連する施設から建築部材、石材、植物などが集められており、財閥が繁栄していた頃の威勢を窺うことができます。

特に、食堂・客間に使われた一階の書院の二間は、高公氏の父、総領家十代当主高棟(たかみね)氏が自ら設計に関わった部屋。これは明治30年(1897)頃に完成した京都油小路三井邸の奥書院の一部で、窓や欄間に桂離宮の意匠を取り入れたといわれています。

また、望海床(ぼうかいしょう)と名付けられた和室は、高棟氏が晩年を過ごした大磯城山荘(じょうざんそう)からの移築。この別邸は、奈良薬師寺をはじめとする全国の社寺から古材などを集め改めて建築資材として再生をはかるという、当時最も奇抜な発想と最大限の耐震構造で設計されました。

代々の当主のなかでも維新の動乱の後、近代日本とともに三井財閥を発展させた高棟氏は、財閥解体が進む昭和23年にその大磯の別邸で91歳の生涯を閉じました。

「三井八郎右衛門邸」では、襖や杉戸などに髙棟氏と親交の深かった円山四条派の画家の絵や髙棟氏本人の絵や陶器なども見ることができます。

経済人として厳しい時代を生き抜きながら、人として生きることの美意識を磨き続けた三井八郎右衛門高棟氏。代々質素・倹約をたてまえとし、人を遇し育てた三井家。その遺構からは、「人の三井」といわれる歴史を築いた一族の、事業家としての美学が伝わります。

ビッキの住宅温故知新

●伝統と同時代性の巧みな融合

本邸の南側は木造で、柱、長押、欄間、障子などの伝統的要素を備えた構成。北側は鉄筋コンクリート造りで装飾的要素を廃した簡素で機能的な構成に。ただし、南側の食堂や客間には、畳の上に絨毯を敷き椅子やテーブルを置く、和洋折衷の生活様式をとっていました。

また、かつては城山荘にあった玄関ホールにあるルネ・ラリックの照明のガラスボールからは、高棟氏がいかに当時の流行に敏感だったかが窺えます。そしてそのガラスボールを支える部分には三井家の家紋である「隅立て四つ目結紋」が見えます。

日本の家紋がジャポニスムに刺激されたヨーロッパの画家たちに意匠として使われ、それが近代デザインのひとつの要素だったことに再び関心が寄せられている現在、とても斬新な発想と見ることができます。

■三井八郎右衛門邸(江戸東京たてもの園内) 江戸東京たてもの園 184-0005東京都小金井市桜町3-7-1(都立小金井公園内) 0422(388)3300 開園時間:9:3017:50(4月~9) 9:3016:3010月~3月) 休園日: 月曜日(祝日または振替休日の場合はその翌日)、年末年始(1228日~14日) 入園料:一般400円  交通:JR中央線「武蔵小金井」駅北口よりバス5

20037月住宅メーカーPR誌掲載)

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2012年7月10日 (火)

2001年 エリスマン邸(先人の暮し方に学ぶ)

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●エリスマン邸(アントニン・レーモンド設計)

日本人の住まい方のなかにモダニズムを発見した建築家

高山ビッキ・文

幕末の開港以来、外国人意留地としての歴史をもつ横浜山手は、散策しながら多くの異人館を見て楽しめ、時にはそうした古い洋館の中でお茶を飲むこともできます。平成2年に元町公園内に復元されたエリスマン邸も気軽に立ち寄れる異人館のひとつです。

元々山手127番にあったこの建物は、大正15年に創建された木造2階建ての住宅。建築主のエリスマンは、スイス生まれで、明治21年に来日し、戦前最大の生糸貿易商シーベルト・ヘグナー商会の横浜支配人として活躍した人です。

日本人と結婚し横浜にとけ込んで暮らしたエリスマンは、妻や使用人のために和館付きの洋館を建てました。昭和15年に亡くなり、横浜山手の外人墓地に眠っています。

さて、横浜の歴史を物語るこの旧エリスマン邸は、実は、住み手を失ってからはマンション建設のために取り壊される運命にありました。しかし市民からそれを惜しむ声が上がり調査したところ、これが旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの助手として来日し、その後日本の建築界に大きな影響を与えたチェコ人建築家アントニン・レーモンドの設計によるものだということがわかったのです。

残念ながらすでに和館の方は取り壊されていましたが、洋館部分だけが移築再建され、レーモンドの作品とその建築思想の一端を後世に伝える場所としてよみがえりました。

アントニン・レーモンド(18881976)は、ボヘミアのグラノド生まれ。文字通りボヘミアン的生き方をしたレーモンドは、プラハの工科大学で建築を学んだ後、パリ、ニューヨークと渡り歩き、大正8年(1973)年にライトともに横浜港に到着しました。

その後は、旧帝国ホテルの完成を見ずに日本を離れたライトとは対照的に、レーモンドは日本への定着を決め、昭和481973)に離日するまで、第二次大戦中を除き、40年近くの間、多くのすぐれた建築を残し、前川國男、吉村順三など優秀な日本人建築家を育てました。

戦前の代表作には、東京女子大のチャペルや講堂、聖路加病院、アメリカ大使館などがあり、戦後は、リーダーズダイジェスト東京支社、群馬音楽センター、南山大学などを設計したことで知られます。

ビッキの住宅温故知新

和と洋が自然に融け込んだレーモンドスタイル

大正15年に建てられたこの建物は、アントニン・レーモンドにとって住宅建築を再考する時期の作品だったと言えるかもしれない。その大きなきっかけとなったのは、大正12年の関東大震災である。

エリスマン邸の外観は、バルコニー・屋根・窓・鎧戸・煙突といった震災前の異人館的要素を受け継ぎながら、大小ふたつの寄棟屋根を雁行形に配した明快な構成やフランク・ロイド・ライトの影響と思われる出の深い軒の水平線の強調に、明らかに新時代の洋館意匠への取り組みが感じられる。また震災時、屋根瓦がすべり落ちるのを目の当たりしたレーモンドは、この住宅では天然スレート葺きにしている。

構造は、木造軸組工法で外壁下地材は斜め打ちに、また、構造材は太く、筋かいも多用するなど耐震性を高めている。レーモンドは単純な材料と構造に行き着くモダニズム建築を追及する過程で、日本人の自然観に基づく建築こそがまさにそれであることに気づく。

そして戦後は、それを「レーモンドスタイル」という手法に高め、自らは「自然性、単純性、直截性、正直性、経済性」の5つを信条に、和と洋が自然に融け込んだ建築の国際的な普及化を推進した。

20011 住宅メーカーPR誌掲載)

■エリスマン邸231-0861 神奈川県中区元町1-77-4TEL.045(211)1101開館時間:9:3017:00 喫茶室ご利用時間:10:0016:00 入館料:無料 休館日:第2水曜日(祝日は開館し翌日休館)年末年始(1229日~13日)

※この文章は高山ビッキが2001に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。●このサイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで 03(3981)6985

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1999年 三鷹市山本有三記念館(先人の暮し方に学ぶ)

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●三鷹市山本有三記念館(東京・三鷹市)

昭和初期のおおらかなモダニズムをファンタジックに伝える洋館 高山ビッキ・文

JR三鷹駅から玉川上水沿いを歩いて10分ほどのところにこの記念館はある。まず、石をあしらった背の低い白い門を発見すると、そこからは大きな樹木がさえぎり家の全貌は見えないが、メルヘンの世界に足を踏み入れるような期待感に胸がときめく。が、その前にもうひとつの発見。門のそばに大きな石がある。それが“路傍の石(ろぼうのいし)”。

この家は小説家山本有三(18871974)が、昭和11年から21年までを家族とともに暮らし、小説『路傍の石』を生み出した家なのである。

『路傍の石』は、家が貧しくて向学心を抱きつつも中学に進学できずに奉公に出された少年が、そんな逆境を跳ね飛ばして上京して苦学する姿を描いた、社会派小説である。

小説に描かれた主人公の吾一少年を取り巻いていた環境と、あまりにもちがうその作者の家に戸惑う人も多いようである。しかしもし、吾一少年がいつか住みたいと夢見ていた家がこんな瀟洒な洋館だったとしたら…。

『路傍の石』は戦時下の検閲干渉のために執筆は中断され、完成していない。けれどもこの家は、描かれなかった少年のその後の生き方を想像するときに全く別の小説の展開さえ期待させる。しかし吾一少年がその後どんな人生を歩もうとこの家には、どんな境遇にあっても明日は今日よりすばらしいと前向きに信じる山本有三、そして当時の日本人のおおらかな近代精神が今も宿っているようだ。

■ビッキの住宅温故知新

震災後に建てられた、しっかりとした構造と折衷様式の洋館

この家は大正末期に建てられた住宅を、昭和11年に山本有三が購入したものである。設計者は不詳だが、関東大震災後の郊外の家ということで、戦前の日本の木造住宅としては耐震性もあり実に堅牢につくられている。

建物は大正時代ならではの自由な折衷表現をもっている。まず、外観の最も大きな特徴である暖炉煙突の石積みは、日本の洋館には珍しく荒々しいデザインで、スコティッシュ・

バロ二アル様式に近い。全体にアーチが多用された造りはゴシック様式的だが、自然庭園のなかにある煉瓦と石の家というイメージはイギリスのカントリー・コテージ風。

ドアや窓の金具はドイツ製。曲線と幾何学的模様の両方が見られる壁面や内部は、近代の装飾様式ユーゲント・シュティールやアール・デコの影響にも見えるが、日本の近代的

な文様にも通じる。また、庭に面したテラスや2階のバルコニーはコロ二アル風である。

そして晩餐客用のドローイング・ルームや意匠を凝らしたマントルピースのある、こんな本格的洋風建築のなかに、忽然と数奇屋風書院造りの和室が現れる。(この和室は有三の好みで後から改装しつらえたもの。)

震災後、このような様式混淆の住居は多数造られたそうだが、現存しているのは珍しい。自由な表現はしっかりした構造に守られている。

19997月住宅メーカーPR誌掲載)

三鷹市山本有三記念館

181-0013 東京都三鷹市下連雀2-12-27 TEL.0422(42)6233URLtp://mitaka.jpn.org/yuzo/ 入館料:300(20人以上の団体は200)※中学生以下及び障害者手帳持参の方と介助者は無料。校外学習の高校生以下と引率教諭は無料。休館日:月曜日(月曜日が休日の場合は開館し、休日を除く翌日と翌々日を休館)年末年始(1229日~14日)開館時間:9:301700交通:JR中央線三鷹駅南口より徒歩12

※この文章は高山ビッキが1999年に企業のPR誌で連載していたものほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで 03(3981)6985 URL:http://kaeru-kan.com/kayale-u/ (WEBカエ~ル大学)

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