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2012年7月11日 (水)

1995年 自動車の中に僕が入る

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「自動車の中に僕が入る」

片岡義男 文・写真

黒い背景のなかに赤い自動車の切り抜きがある。この自動車はマーキュリーのクーガーだ。坂を上がって来る自動車は、ポンティアックのGTOだ。そして後部だけが写真のなかにとらえてあるのは、僕の記憶が正しければ、ダッジのチャレンジャーだ。三台とも、

ほぼおなじ時代のアメリカの自動車だ。つまり、三台をつらぬいている価値感は、おなじ時代のものだ。

無駄、あるいは余計なコスト、という視点から検討し直すなら、この三台の自動車は、どれもみなあっさりと落第だろう。大きすぎるし重すぎる、したがって燃料を消費しすぎる。排気の質は相当にひどいのではないか。明らかに資源を使いすぎているが、そのことに対比して用途はじつにトリヴィアルだ。

三台とも僕は自分のものとして乗っていた経験がある。ほとんどの場合、僕ひとりだけが乗って、どこかへ日常の用を足しにいくだけだった。

自動車は箱だ。その箱にはエンジンがあり、エンジンが四つの車輪を回転させて走る。運転する人はステアリング・ホイールを操作して、走る方向を選んでいく。アクセルがありブレーキがあり、ヘッドライトが灯ってドアのガラスは昇降し、正面のガラスに降りかかる雨は、ワイパーが拭ってくれる。

どんなに複雑な装置が加わろうとも、どんなにエンジニアリングが進化しようとも、自動車は箱だ。その箱にはドアがあり、そのドアを開いて僕はなかに入る。そしてドアを閉じる。

自動車は社会的な存在だが、箱のなかに僕が入って動かすという点において、それはきわめて個人的な存在でもある。

自動車が持つこの個人的な性格に、外側の造形と内側の雰囲気が、たとえば僕という個人に、情動的な影響をあたえずにはおかない。僕を情動的につき動かす自動車が、僕は好きだ。

欠点は多いが、ここにあるこの三台は、情感に訴えるところ大であり、そのかぎりにおいて僕は愛着を覚える。そのような自動車のなかになら、僕は入ってもいいと思う。

1995年1月住宅メーカーPR誌掲載)

※この文章と写真は片岡義男さんの許可をいただいて掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985)

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