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2012年7月15日 (日)

2003年 旧土岐邸洋館(先人の暮し方に学ぶ)

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「旧土岐邸洋館」大正末期に建てられた“パンの殿様のお城”は堅牢な木造のドイツ風洋館だった。

高山ビッキ・文

江戸時代に城主として土地を治めた一族が、明治以後、近代化する時代をどう生き抜いたか。この旧土岐邸洋館は、上州沼田藩(現在の群馬県沼田市)の最後の藩主、土岐頼知(よりおき)の子息章(章)氏(18921979)が大正期に私邸として東京・渋谷に建てた遺構であり、そこからは時代変化の波に翻弄されながらもたくましく生きた“お殿様”の姿が見えてきます。

明治以降の旧藩主の家計は、よほどの石高でない限り安定しているとはいえませんでした。明治維新後、東京に移り住んだ土岐家も、最初は赤坂の江戸見坂の旧江戸屋敷に住み、別邸を本所の沼田藩下屋敷に構えるなど昔の殿様の生活を続けることができました。しかし、明治30年、気づくと財産はすべてなくなっていました。そもそも次男に生まれ家督を継ぐ立場になかった章氏でしたが、四歳上の兄が早世したことで急きょお家再興の大役がまわってきました。

章氏が再生の道を切り開くために、まず行ったことが何ともユニーク。パンの製造販売でした。帝大で学んだ発酵学の知識を活かして起こした事業でしたが、これは失敗に終わります。しかし、生涯“パンの殿様”の異名をとるほどパン好きで知られ、刺身にパン、みそ汁にパン、番茶にパンと、その感覚はまさに和洋折衷でした。敗戦後、パンがなかなか手に入らなくなると、この邸宅に本格的なパン窯を築き、おいしいパンを焼いたといいます。

章氏の発酵学が本領発揮されるのは、結婚した貞子夫人の実家の事業であるワインの製造販売の会社に入ってからでした。さらなる研鑽を積むためにドイツにも派遣されます。

この邸宅が大屋根と牛の目窓のある、当時ドイツではやっていたユーゲント・シュティールという新しい建築様式を基にデザインされているのは、留学の時の影響が大きかったからでしょう。

大正12年の関東大震災はこのドイツ留学中に起こり、章氏は帰国後渋谷に土地を得て、震災の翌年、この邸宅を建てました。建設当初は、平屋の和洋館と連接されたかなり大きな邸宅で、その洋館と和館を組み合わせた構成には明治期の大規模邸宅建築の名残が感じられます。

しかし、現存するこの洋館には、応接空間を小規模の西洋館の玄関脇に配置する、昭和初期の文化住宅への過渡期の特徴も見られます。大正期ならではのわが国の洋館の特徴をよく示した住宅遺構であることがわかります。

章氏は、その後貴族院議員となり、戦後は中央競馬会顧問などの要職を歴任しました。沼田公園にあるこの邸宅の中でそのありし日を想像するとき、パンやワインの豊かな香りがそこはかとなく立ち上るようです。

■ビッキの住宅温故知新

“殿様”がめざした100年住宅

この邸宅は章氏の逝去後、貞子夫人が住まわれ1990年まで使用されていました。その後、章氏長男の實光氏から沼田市に寄贈された遺構です。

章氏は、本邸建築に当たってドイツから持ち帰ったり取り寄せたりした建築雑誌を読んでデザイン的なことを研究するとともに、大震災の後ということで基礎回りや土台には特に念を入れるようにと施工者に指示していたそうです。

また、メンテナンスにも充分配慮し、章氏自身住まいの手入れをする姿がよく見かけられたといいます。一部増築のほかリフォームもほとんど行われず、使用を止めるまで外観から内部のインテリアにわたり創建当初の様子が伝わる状態を維持していました。

まさに「100年住宅」という言葉をこの邸宅は示してくれます。そのためには住む人の努力が必要なことも。それは堅牢なお城を百年以上も受け継いできた“殿様”ゆえの知恵だったのかもしれません。

200310月住宅メーカーPR誌掲載)

■旧土岐邸洋館 378-0042群馬県沼田市西倉内594番地(沼田公園内) EL.0278(23)4766 開館時間:9:0016:00 休館日:水曜日、祝日の翌日、年末年始 入館料:大人100円 小人40

※この文章は高山ビッキが2003年に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。※このサイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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