2017年5月18日 (木)

ご無沙汰いたしましたコトバデフリカエルです

100年カエル館&カエ~ル大学(運営ケーアンドケー)は、本ブログで高山ビッキが1990年以降、カエルに関すること以外について企業のPR誌等に執筆したエッセイなどの読み物を紹介しております。また、作家の片岡義男さんにご寄稿いただき弊社制作PR誌等に紹介したエッセイもご許可のもと掲載いたしております。

高山ビッキは、1980年代以降、生活者のマインドや消費行動をトレンドとして分析する仕事に関わってきました。ここでは90年代から2000年代に書いたものを中心にこれからも少しずつ紹介していきます。本アーカイブズを通して時代をフリカエル時間をお過ごしいただけましたら幸いです。

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2015年6月15日 (月)

東京タワー55年の証言集CD-R『淋しかったら東京タワーにいらっしゃい』発行

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日本電波塔株式会社(東京都港区 代表取締役社長 前田 伸)は2013年に開業55周年エッセイコンテスト「いつも変わらずそこにある~わたしたちの東京タワー物語~」を実施しました。そしてその応募作品をもとにした証言集『淋しかったら東京タワーにいらっしゃい』をCD-Rの形態にまとめ販売しております。

同エッセイコンテストでは、東京タワーに行き、東京タワーを見、東京タワーについて考えた、さまざまな世代の人々による時代の証言ともいえるエッセイ作品が集まりました。この証言集が応募者をはじめ私たち一人ひとりにとって、東京タワーとともにある時代の“言葉のアルバム”になり、また企業の皆さま、研究機関の皆さまにとっては貴重なアーカイブズとして活用いただけるものと思っております。

●監修:日本電波塔株式会社 

●企画・制作:有限会社ケーアンドケーケー

●CD-R版381ページ 価格1枚 1080円(税込)

※お申し込み03-3981-6985 http://kaeru-kan.com

※東京タワー3階ショップ内で販売しております。

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2013年8月15日 (木)

■東京タワーエッセイコンテスト(締め切りました)

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東京タワーで現在から昭和をフリカエル

東京タワーは開業55周年を記念して、東京タワーにまつわる想い出や未来の東京タワーに望むことなど、幅広い世代からのさまざまな視点によるエッセイを募集いたします。

■テーマ いつもかわらずそこにある。~わたしたちの東京タワー物語~

応募資格 年齢・性別・国籍は問いません。

応募規定 本文は400字詰原稿用紙2枚、Microsoft office Wordの場合、800字以内にまとめてください。応募作品は日本語で書かれた自作未発表のもので、実際の見聞、経験に基づくものを求めます。一人3点まで応募が可能です。

応募方法 住所、氏名、年齢、電話番号、職業、作品タイトルを明記のうえ、郵送またはメールにてご応募下さい。詳しくは下記ホームページをご覧下さい。http://www.tokyotower.co.jp/essay

審査員 稲増龍夫(法政大学教授)、泉 麻人〔コラムニスト)、水田廣行(日本電波塔株式会社代表取締役会長)、前田 伸(日本電波塔株式会社代表取締役社長)、小川和之(日本電波塔株式会社執行役員)

賞・賞金 最優秀賞1名(賞金10万円・記念品)優秀賞2名(賞金3万円・記念品)東京タワー賞 審査員特別賞 他各賞あり

締切 2013年10月20日(日)当日消印有効

審査発表 2013年12月23日(月)の開業記念日に合わせて審査結果の発表と表彰式を行います。公式HPでも公開します。

主催 日本電波塔株式会社(東京タワー)

お問い合わせ先 東京タワーエッセイコンテスト事務局 TEL.03-3981-6985(ケーアンドケー内)

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2012年11月26日 (月)

2000年 旧吉屋信子邸(先人の暮し方に学ぶ)

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旧吉屋信子邸(鎌倉市)

吉屋信子が遺した家が物語る

作家の真実と建築家の思想

高山ビッキ・文

作家吉屋信子(18961973)のイメージは、その作品世界によって二つに分かれるかもしれない。女学生の頃から自分の作品を少女雑誌に投稿していた吉屋信子は、大正5年、信子20歳の時から始まった『花物語』の連載で当時多くの女性ファンを魅了した。

中原淳一の挿絵と相まってその世界は少女の憧れを誘う西洋的なロマンチシズムに溢れていた。人気作家となってからは髪型をショートボブにし、いわゆるモガの草分け的存在であった。つまり、初期の作品からは「少女小説」作家の印象が強く、また、題材に女性同士の友情などを描くことから、男性中心の社会に批判的なフェミニストと見られることも多い。

しかし、天性の文章家である吉屋信子は、身の回りに起こることことから社会の動き、世界の動きにまで絶えず敏感に反応し、素直に表現してきただけで、決して「少女世界」や「女の世界」を専売特許にしたわけではない。その証拠に、年を重ね見聞を広めていくなか、独自の歴史小説をものするようになる。晩年の吉屋信子は、『徳川の夫人たち』『女人平家』といった歴史小説を書く、堂々たる女流作家として和服姿のイメージを記憶している人も多いだろう。

吉屋信子は生涯を独身で通した。そして自分の力で邸宅や別荘を何度か建てている。この家は、昭和37年に建てたいわば終の住みかである。これを設計したのが吉田五十八。信子が吉田に設計を依頼したのはこれが三度目になる。過去に牛込砂土原町(昭和10年)と二番町(昭和25年)に吉田五十八の数奇屋の家を建てている。

吉屋信子に初期の「洋」のイメージを重ね合わせる人にも、晩年の「和」のイメージを抱く人にも、この家は意外な印象を与えるかもしれない。そしてその意外性こそ、当時新しい数奇屋といわれた吉田の建築の思想の一端と、吉屋の真実を物語っている。

■ビッキの住宅温故知新

吉屋信子がそだてた新しい数奇屋

吉屋信子は昭和元年、下落合にテラスの張り出したバンガロー風の洋館を建てている。これはまさに信子の初期の作品をイメージさせる家といっていい。

ところが昭和3年から4年にかけての一年間、モスクワからアメリカまで世界を西回りでぐるりと見てきた信子は、帰国後、日本人としての自分を強く意識するようになる。そうした経験の後、信子は吉田五十八と出会っている。まだそれほど知られる前の吉田に、信子は、「イスの生活ができる日本建築にしてほしい」とだけ希望を伝え、あとは自由に任せた。

自らの数奇屋建築を求めて途上にあったこの建築家にとってかなり大胆な実験の場を与えられることとなった。吉田自身何かの建築誌に「新しい数奇屋の、そもそも発祥の家が、当時の吉屋さんの家だとすると、吉屋さんはさしずめ新しい数奇屋の生みの親といえるかもしれない」と書いている。

施主が建築家を育てた好例であり、両者の心の高貴さが感じられる数奇屋建築である。

★写真(上から)

1、庭から見た外観。家の向こうには樹齢2300年のたぶの木がみえる。庭に植えられたオールドローズは信子の好きな花だった。

2、数奇屋風の腕木門。塀は腰板付き、瓦葺の壁塀。

3、銅版葺屋根の玄関。ポーチ・玄関内部の床は玄昌石の四半貼り。

4、和室続きのリビング。ソファは吉田五十八設計の造り付け。座った時の目線と和室に座したときの目線が同じ高さになるように設計している。

5、和室は6畳だが、縁側と床框にケヤキを使った広い床の間によって広く感じる。

6、執筆に集中できるようにと書斎はあえて北向きに。暗くなりがちなので天窓を付け、中に蛍光灯を入れている。

7、花を愛した信子の広い和風庭園。

20007月住宅メーカーPR誌掲載)

■吉屋信子記念館

神奈川県鎌倉市長谷1-3-6

お問い合わせ:鎌倉生涯学習センター

TEL.0467(25)2030

※この文章は高山ビッキが2000年に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。写真の掲載につきましても再度許可をいただき使用しております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年10月17日 (水)

2000年 成城五丁目猪股邸(先人の暮し方に学ぶ)

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●成城五丁目猪股邸(東京・世田谷区)

武士道を尊ぶ施主の心意気に応えた

吉田五十八の近代数奇屋家建築

高山ビッキ・文

東京・世田谷区が高級住宅地しての姿を見せ始めたのは昭和30年頃。猪股邸は昭和42年に成城地区に建てられた。施主は(財)労務行政研究所の理事長を務めた故・猪股猛氏。氏が夫婦のいわば“終の住みか”として、それまで住んでいたフランク・ロイド・ライト風の住居を和風の建物にしたいと、建築家吉田五十八(18941974)に依頼して建てた家である。

吉田五十八は大正から昭和にかけて活躍した建築家で、独自の手法を通じて因襲化した数奇屋建築を近代化して再生したことで知られる。主な作品としては、歌舞伎座や成田山新勝寺大本堂、五島美術館などの公共建築物の他、梅原龍三郎、吉屋信子など文化人の私邸をはじめ数多くの住宅設計も手掛けた。昭和39年には文化勲章を受けている。

猪股家は松浦藩の武家の出ということもあり、猛氏は武家屋敷のような質実剛健の気風が感じられる家を希望していた。その施主の意を汲むことで、猪股邸は吉田五十八ならではの近代数奇屋の美学が細部にまで行きわたっていながら、柱を太くするなど武家屋敷風の要素も加味し、他の吉田数奇屋のスタイルとはちがった特徴をもっている。

100坪はある木造平屋建ての住宅。そのまま屋根をのせると屋根が大きくなりすぎ美観を壊すので、中庭を二つ設け屋根を大屋根、中屋根、小屋根と三つに分ける手法がとられている。庭には、ソメイヨシノ、アカマツ、ウメなど計48種類、計265本の木々が植えられ、居間に面した一帯には、東京にはめずらしいスギゴケがはえそろう。この庭園は猛氏自身がデザインしたもの。

現在、この邸宅は猛氏の長男である猪股靖氏によって世田谷区に寄贈され、庭園と一緒に一般公開されている。日本人の伝統的な美意識と時代が求める近代化精神がみごとに調和した和風住宅である。

■ビッキの住宅温故知新

“吉田数奇屋”の美しさと過ごしやすさ

この邸宅には、シンプルで端正な趣のなかに吉田五十八流近代数奇屋デザインの巧みさが生きている。その真髄が凝縮された茶室「勁松庵(けいしょうあん)」。居間から見るとあたかも離れのように見えるこの茶室に、客人は待合室である居間から庭を通って、にじり口より入る。

しかし実は、この茶室は渡り廊下で主棟とつながっている。お茶事のしたくがラクにできるように利便性を図っているのだ。そして、にじり口は普通は幅が63cmぐらいだが、ここではお茶室から庭が楽しめるようにと、ほぼ倍の128cmをとっている。

また、居間、夫人室、和室、書斎と続く南側の開口部では、雨戸、網戸、硝子戸、障子戸などの柱間装置をすべて引き込み戸にして、開け放つと戸袋のない、壁だけのすっきりした外観をつくるとともに、庭への眺望を防げない空間を生み出している。

西側にある書斎と一畳台目の茶室は昭和57年に増築されたものだが(設計・野村加根夫氏)、“吉田数奇屋”を踏襲し、書斎のコーナーの窓は4種類の戸をすべて収めると、180度見渡せる戸外と一体化した清々しい空間になっている。

(20004月住宅メーカーPR誌掲載)

■成城五丁目猪股邸

1550031東京都世田谷区北沢2-8-18

お問い合わせ先

(財)せたがやトラストまちづくり

TEL.03(6407)3313

※この文章は2000年に高山ビッキが企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。写真についても再度許可をいただき使用しております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年10月11日 (木)

2001年 旧松方正熊邸(先人の暮し方に学ぶ)

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●旧松方正熊邸(東京・港区)

家が育てたインターナショナルで

自由な精神が今も学校教育に生きる

高山ビッキ・文

港区元麻布は道が入り組む住宅街に入ると、行きかう人に欧米の方が多く、道を聞こうにも英語が必要になるほどです。そうした環境を導くかのように佇む、旧松方正熊(まつかた しょうくま)邸は現在、西町インターナショナルスクールとして、幼稚園から中学までの多国籍の子女のための、インターナショナルな教育の場になっています。

1921年(大正10年)に建てられたこの建物は、明治の元勲松方正義の六男で大日本精糖を起こした松方正熊と妻の美代子、そしてその子供たち6人が暮らした私邸でした。この家で育った子供たちはいずれもその生涯をアメリカと深く関わって生きました。

なかでも私たちに最も馴染みが深い方に、次女で、後々駐日米国大使となるライシャワー博士と結婚したハル・ライシャワー19151998年)がいます。そして三女の松方種子はアメリカの大学で修士を取った後帰国し、1949年ここにスクールを開き、日米両国語を話せるようにするバイリンガル教育を始めました。

松方家6人の子供たちの教育には母親が大きく影響しました。正熊の妻美代子はアメリカで生まれ育ち、結婚とともに日本での暮らしを始めました。そして子供の教育を考えたときに、当時の日本の一般の学校教育では独立心が育たないのではないかと思い、自分の子供たちを自分の家で教育することにしたのです。

つまり、自分の家をアメリカ人とイギリス人の家庭教師のいる学校にして教育することに。そのうちに松方家の友人の子供たちも「松方さんの英語教室」と呼ばれたこの私塾に集うようになります。この邸宅が建てられた時には、すでに家を教室として使うことが想定されていました。

この邸宅の設計者は教会の伝道師でもあったウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880

964)です。日本での住宅建築を通して伝道を進めたヴォーリズの設計は、松方家の教育、そして現在の西町インターナショナルスクールにとってこの上ないユートピアを導いたようです。

■ビッキの住宅温故知新

日本人の洋風住宅のモデルとなったヴォーリズの住宅

ウィリアム・ヴォーリズは、コロラド大学を卒業した後、建築家としてではなくキリスト教の海外伝道師として1905年に来日しました。

しかし、伝道活動の資金を得るためにも様々な事業が必要になり、後にメンソレータムで知られる近江兄弟社を設立し、併せてヴォーリズ建築事務所を開きました。ヴォーリズの建築は本来の仕事がら教会やキリスト教系学校などミッショナリー建築で知られますが、大正から昭和にかけて住宅をなんと400棟は設計しています。つまり、現在に至る日本の洋式住宅のモデルをつくった人と言っていいでしょう。

そのスタイルはアメリカの住宅建築の伝統的様式に則ったものですが、ディテールや設備は合理的・現実的な近代住宅を目指しました。この時代にあって住宅環境と健康について語った建築家でもあり、家というハコを提供するだけでなく、家をいつまでも生気あるものにする具体的な処方を提案しました。

■旧松方正熊邸

(西町インターナショナルスクール)

106-0046東京都港区元麻布2-14-7 

TEL.03(3451)5520 URL:http://nishimachi/ac.jp/

200110月住宅メーカーPR誌掲載)

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2012年8月15日 (水)

2002年 自由学園女子部校舎(先人の暮し方に学ぶ)

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自由学園女子部校舎(東京・東久留米市)

ライトの薫陶を受けた遠藤 新による

「自由学園」の建学の精神を伝える建築

高山ビッキ・文

「自由学園」は、「婦人之友社」を創設した羽仁吉一(18801955)・もと子(18731957)夫妻が、新しい女子教育を求めて起こした学校として知られ、現在、幼児教育から大学教育までの一貫教育を行っています。

東久留米市にある三万坪の学校敷地は、人の手になる建物と自然が生み出した樹木が調和する、真の自由を求めた羽仁夫妻のまさに理想郷と呼ぶにふさわしい環境です。大正10年の創立当初「自由学園」は目白(現自由学園明日館、豊島区西池袋)に校舎が建てられました。その設計にあたったのが、当時帝国ホテルの建設のために来日していたフランク・ロイド・ライト(18691959)でした。

そして羽仁夫妻にライトを紹介したのが、その弟子遠藤 新(18891951)であり、この、当時からの呼び方でいえば「南沢」の女子部校舎は隣接する学園町の分譲と共に、昭和9年に遠藤本人の設計により建てられました。目白・南沢二つの建築に共通しているのは、遠藤が「三枚おろし」と呼んだ、建物を縦に三つに分けて中央の空間の天井を高くし、両側の空間の天井を低くする空間構成です。

これによって美観、音響効果、経済性などにすぐれた建物が実現しています。ただし、目白の校舎はツーバイフォー工法を採用していますが、南沢の女子部校舎は木造軸組工法。また、食堂とその両側の校舎には瓦屋根を載せ、体操館は面する大芝生に対して内と外と境界を曖昧にさせるほど開放的になっているところに、ライトから学んだものを日本の風土により深く根ざした建築として昇華させた遠藤の志の高さが窺えます。

「建築は生活の質を高めるための生活環境でなければならない」と考えていた遠藤の建築哲学は、まさに実生活の大切さを教育の基本に据えた「自由学園」の建学の精神に通じるものです。南沢の学園には「時の係」を受け持つ生徒によるチャイムが響きます。ここでは「時」もまたゆっくりと手作りされているようです。

ビッキの住宅温故知新

食堂に象徴される生活の場としての学校建築

「自由学園」が他の学校に比べて特徴的とされることのひとつに、食堂が学園生活のなかで重要な役割を果していることがあります。これは学校給食や弁当持参とちがい、生徒たちが自分たちで食事を作ってあたたかい料理を皆で一緒に食べる家庭的な場所であり、特に羽仁夫人の母親としての発想から生まれた教育観に基づいています。

「自由学園」では、料理だけでなく校内の掃除や広い芝生の手入れまで生活まわりのことはすべて生徒たちが自分で行います。そうして実生活上の能力を身につけさせることが、一般の学科を習得すること以上に大切であるという考えは、羽仁夫妻亡き後もずっと受け継がれている教育理念です。

ライトや遠藤 新がその教育理念を深く理解した背景には、ライトの叔母がアメリカで邸宅内にホームスクールを開いていたということや遠藤 新も「生活に徹底した建築」を求めていたことがあり、それらが幸運な出会いとなって、建築に結実したと言えるでしょう。

●学校法人自由学園南沢キャンパス

203-8521東京都東久留米学園町1-8-15

TEL.0424(22)3111FAX.0424(22)1078

●学校法人自由学園目白キャンパス

(重要文化財、自由学園明日館)

171-0021東京都豊島区西池袋2-31-1

TEL.03(3971)7535FAX.03(3971)2570

(20027月住宅メーカーPR誌掲載)

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2012年7月31日 (火)

2002年 旧マッケーレブ邸(先人の暮し方に学ぶ)

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雑司が谷旧宣教師館

「旧マッケーレブ邸」(東京・豊島区)

国境のない精神から生まれた

質実な洋館 高山ビッキ・文

豊島区の「雑司が谷霊園」付近は、都内の散歩スポットのひとつ。夏目漱石や小泉八雲など文豪も眠るこの霊園なら、機知に富んだゴーストに出会ってしまうかもしれませんね。この「旧マッケーレブ邸」はそんな散策者に偶然“発見”されることも多いようです。

現在、東京都及び豊島区の文化財に指定されているこの木造の洋館は、米国人宣教師ジョン・ムーディ・マッケーレブ(18611953)によって明治40年(1907)に建てられました。当時日本に数多く建てられたいわゆる外国人宣教師館のひとつです。

建物には、19世紀のアメリカ東部に見られた住居形態の特徴がよく表れています。全体のデザインは米杉(アメリカン・レッドシーダー)(シングル)で外壁を葺くシングル様式。また、森林資源が豊富で木造建築が主流だった19世紀のアメリカでよく見られた、カーペンター・ゴシック様式(ゴシック様式を大工の職人芸で実現する)が細部の装飾に生かされています。

テネシー州のナッシュビル郊外に生まれたマッケーレブは、クリスチャンとして高い理想に燃えて1892年に初めて日本にやってきました。そして1941年の日米開戦により帰国するまでの約50年間を日本で宣教師として活動しましたが、その理想は打ち砕かれることも多く、土地や資金を失うことも多々あったようです。それでも帰国後は、日系人収容所の慰問や日本への義援金の送付など我が国への支援を惜しまなかったと言います。

「私の国籍は天国にあるから」と考え、国境意識を持たなかったマッケーレブ。その帰国後、邸宅の住み手は何度か変わり、最後はマンション建設計画のため取り壊しの運命に差し掛かった時、住民運動が起こり、昭和57年に豊島区による保存が始まりました。マッケーレブの想いは半世紀の時を経て、私たち日本人に伝わったのでしょうか。

■ビッキの住宅温故知新

19世紀後半のアメリカ郊外住宅にみる

質素な贅沢

現在、日本の都市郊外にたくさんの洋風住宅がつくられているが、そのルーツとも言える原型は19世紀後半のアメリカの郊外住宅と言えるかもしれない。そのひとつの例がこの「マッケーレブ邸」である。

質素ながらシングル様式、カーペンター・ゴシック様式といった特色と全体に漂う品格を備え、今の日本人にも安心と普遍性を感じさせてくれる。間取りは上下階同様で、それぞれ三部屋あるコーナーにはすべてマントルピースが設けられているが、1か所の通気孔に集約させることで省エネを図っている。

ただし、1階の居間の暖炉のデザインだけはアールヌーボー風のタイルを使うなど、質素な中にもささやかな贅沢を忘れていない。また、開口部を大きくとった上下階の広縁はサンルームの役割を果たしている。広縁と食堂との間の窓は室内でありながら上げ下げ窓になっていることから屋外的な意味があったのかもしれない。

20024月住宅メーカーPR誌掲載)

■雑司が谷宣教師館

「旧マッケーレブ邸」

171-0032東京都豊島区東池袋1-25-5 TEL&FAX.03(3985)4081 開館時間:9:001630 休館日:月曜日(祝日の場合は開館)、第3日曜日 祝日の翌日、年末年始、臨時休館日※ 入館料:無料 交通:東京メトロ有楽町線東池袋駅徒歩10分 東京メトロ副都心線雑司が谷駅下車10分 

※平成2472日~平成252月下旬まで事務棟建替えにつき臨時休館。

※この文章は高山ビッキが2002年に企業のPR誌に執筆した原稿をほぼそのまま掲載しております。また「旧マッケーレブ邸」様にも原稿及び画像の再使用にあたり許可をいただいております。無断転載を固く禁じいたします。※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2012年7月27日 (金)

1996年 大人の女のベクトル(映画 特集テーマ)

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<特集・映画/大人の女の原則>

映画で探るあなたの大人の女へのベクトル

高山ビッキ・文

“大人の女”のイメージを追求するとしたら?こんな「大人の女座標軸」を傍らにおいて、映画作品を見ながらあなただけの大人への道を模索してはいかがでしょう。X軸で<母性>対<父性>、Y軸で<プリティ>対<セクシー>を捉え、その2軸が交差するところに、まさに現代の「スーパー・アダルト」が見えてきます。

●プリティ・ママ

今も昔もいるかわいいお母さん、

プリティ・ママは大人の定番

比較的古典的なイメージで、なじみやすいのがこの「プリティ・ママ」。映画「潮風のいたずら」で記憶喪失のまま<母性>にめざめていく女性を演じたゴールディ・ホーンの<プリティ>ぶりはいち押し。

どこかヌケてて、ドジで、時々明るくヒステリックしちゃう。それでいて愛情豊かで、なかなか表面には出さないけれど本当はすごく賢かったりする。きっと子供と接することで育っていく、大人の知性の表現が、この「プリティ・ママ」なのだと思う。

また、映画「フォレスト・ガンプ」や「マグノリアの花たち」などで母親の良心ともいえる女優はサリー・フィールド。そのあたたかで日向の香りのする母親の感じも「プリティ・ママ」が見せる大人のイメージである。プリティ・ママの生きざまを追求してみては。

●ボーイッシュ・アダルト

ボーイッシュ・アダルトのキュートな知性

どこか大人になりきれない部分を残しながら、それでもやはり大人になろうと努力することで、その揺らぎがストイックな雰囲気の気品を生じさせてしまったようなタイプ。アネット・ベニング、ダイアン・キートンなどがこのタイプ。

ウォーレン・ビティと共演した作品「めぐり逢い」のアネット・ベニングのはかなげな美しさは、大人ならではの可憐さ。身をひきつつ、しかし本当に大切なものは心の中で守り続ける。それがこのタイプの身上である。

またダイアン・キートンと言えば、マニッシュなスタイルを自分らしく着こなしてしまうのが印象的。映画のワンシーンで、企画書を書いたり、イラストを描いたりするときの手の動きがすてき。少女っぽさに欠けるなと思う人は、この<父性>×<プリティ>の魅力を追求することで、あなたらしい大人の道が切り開けるかも。

●アンドロジナス・セクシー

クールビューティな大人の魅力

<父性>的で<セクシー>という、何やら妖しい雰囲気をもつこのタイプは、いわば先端の大人の女である。

筆頭にあげたいのは何といっても「氷の微笑」でバイセクシャルを演じたシャロン・ストーン。「スペシャリスト」の冒頭シーンでは、電話の声の存在感だけでシルベスタ・スタローンを誘導していく。その声が低くてセクシー。また、「クイック&デッド」では、戦う女を演じるが、同じタフネスでもスーザン・サランドンやジェシカ・ラングとちがい、ナイフのようなクールさが「アンドロジナス・セクシー」ならでは。

このタイプで他にあげられるのは、「エイリアン」のシガニー・ウィーバー、「ターミネーター」のリンダ・ハミルトン、「ブレード・ランナー」のダリル・ハンナ、そしてシャロン・ストーンを有名にした作品が「トータル・リコール」となるとこのタイプはSFが似合う大人の女である。

●タフ&セクシー

大地のようにすべてを包み込む

女性原理のタフ&セクシー

<母性>のおよぼす影響力の範囲が広すぎる、というのが、つまり、女性原理そのものの大地のような存在である。「プリティ・ママ」とちがい、<セクシー>の要素をもつためか、時に、母親として逸脱することもしばしば。その部分も含めてやはり<母性>の人である。

典型は何度といってもジェシカ・ラング。「ロブ・ロイ」では、愛する夫と娘たちを守るために体を張って生き抜く、あっぱれなほど強い母親役を熱演。「ブルー・スカイ」ではあんまりにも男好きで、夫と子供をハラハラさせるのだが、最後はやはり<母性>のままに戦う。相手役も相当度量のある人じゃないと務まらない。ちなみに実際のパートナーはサム・シェパードである。

他に、「激流」で体力をつけみごとに川下りをしたメリル・ストリープも、この「タフ&セクシー」に加えたい。

●スーパー・アダルト

スーパー・アダルトの

どうやっても割り切れない魅力

代表格にプッシュしたいのが、スーザン・サランドン。映画「依頼人」では、アル中のため離婚して子供も失う<母性>失格者であったものの、弁護士という論理で勝負する<父性>を身につけ、事件に巻き込まれた一人の少年を救う。でも少年に対する眼差しはあくまでも<母性>だった。

また、映画「ぼくの愛しい人だから」は、大人の女の<プリティ>と<セクシー>で、年下の男と結ばれるストーリーだが、実際のパートナーも年下。役者としてその才能が高く評価されているティム・ロビンスである。二人の間に<父性>の対等感があるのが大人の風格。

イメージ的には、ミシェル・ファイファーやキム・ベイジンガーもこのタイプ。またキャサリン・へプバーンなどいくつになっても現役で、若者にさりげなく示唆できる大女優は、<スーパー・アダルト>として敬意を表したい。

(19964月ファッション専門店PR誌掲載)

※この文章は高山ビッキが1996年に企業のPR誌に執筆したものをほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。 ※本サイトへのお問い合わせはケーアンドケーまで03(3981)6985

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2008年 ワークライフバランス消費(生活トレンド分析)

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脳内で“”バリと“ユル”を使い分ける

ワークライフバランス消費。

高山ビッキ・文

「脳」や「脳力」をめぐるマーケットの動きは、特に21世紀に入ってからとどまることがない。

テレビ番組「脳内エステ IQサプリ」(フジテレビ系列)をはじめとするクイズ番組が増え、ゲームソフトも「大人の計算ドリル」をヒットさせた医学博士・川島隆太による「脳を鍛える大人のDSトレーニング」(ニンテンドー)がゲームの新市場を開拓し、脳科学者の茂木健一郎の唱える「脳を活かす勉強法」は、受験生から中高年にまで支持され、就職試験やビジネスの現場では「地頭力(じあたまりょく)」が求められているのだとか。

生活に根付いた「脳論」

脳に対する関心は、90年代以後着実に広がったが、このところの動きは、決して理論上のものではなく、実際の生活に根ざしたものとなっているのが大きな特徴だ。

脳への関心の高まりが脳科学そのものの発達の賜物であることはまちがいないが、それがなぜ、個人の消費生活にまで影響を及ぼしているのか考えてみたい。

バリバリとユルユル

それはひとつには「葡萄図(グレープアナリシス)」に示したように、「ワーク」と「ライフ」のバランスを個人の脳で管理していく時代になったからかもしれない。

21世紀に入ってIT社会が定着した結果、仕事をしようと思えば地球の時差を超えて24時間〝オール・タイム・ジョブ〟も可能だ。格差社会が問題になるなか、脳の使い方ひとつで収入に差が出るのもIT時代がもたらしたひとつの側面と捉えられる。

仕事と生活

最近「ワークライフバランス」という考え方が提唱されている。24時間高収入を得るだけが人生ではないし、これからの仕事は、もっと「ライフ」を通して人とのコミニュケーションを深めることが、さらなるステップアップに必要と思っているビジネスの成功者が増えているのだ。

そこで「葡萄図」では「ユル」と「バリ」を相対する位置に置いた。ちなみに「バリ」はバリバリ仕事をする方向に対して、「ユル」はゆる~い気分である。

生身の脳

脳の専門家によれば、脳はたえずバリバリ全開にしておくより、睡眠やボーっとする時間を上手に活用する方が〝ひらめき脳〟として良い効果が得られるという。飲まず食わずで24時間仕事をしても、生身の人間が健康を維持できるわけではないのだ。

「ユル」をうま~く活かした脳の使い方がこれからは大切になる。IT社会のなかで浮上してきた人対人のコミニュケーションの問題を解消し、より豊かなワークライフバランスを営むためにも、あらためてアナログ的な脳の使い方が、いま、真剣に見直されつつある。

(2008年夏)

※この文章は高山ビッキが2008年に企業のPR誌に執筆した原稿をほぼそのまま掲載しております。無断転載を固く禁じいたします。 ※本サイトへのお問い合わせはカーアンドケーまで03(3981)6985

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